Essay 02 · 美意識と記憶

歌が流れているあいだに

もののあはれと、日本のアイドル文化に宿る青春の美しさ

あるアイドルグループを、偶然のように知ることがある。

メンバーはまだ若い。

歌の中には、青春という言葉によく似合うものがたくさんある。

夢。 初恋。 明日。 友情。 今の自分と、いつかなりたい自分との間にある、まだ名前のつかない距離。

明るい曲なのに、不思議なくらい心に残ることもある。

もう一度聴く。

少しずつメンバーの顔を覚える。

それぞれの歌い方や踊り方の違いが分かってくる。

最初は緊張しているように見えた人が、いつの間にか堂々とステージに立つようになる。

声が強くなる。

笑顔が自然になる。

知らなかったグループが、気づけば自分の日常のどこかに小さな居場所を持つようになる。

そして、ある時ふと思う。

これは、ずっと同じままではない。

みんな少しずつ大人になる。

声も変わる。

誰かが卒業する。

いつか、そのグループ自体が写真や映像、歌の中にだけ残る日が来るかもしれない。

不思議なことに、そのことに気づいたからといって、歌が悲しくなるとは限らない。

むしろ、少しだけ美しく聴こえるようになることがある。

この感情には、昔から名前がある

日本には、こうした感覚に近いものを表す古い言葉がある。

もののあはれ。

「哀れ」という字が含まれているため、単なる悲しみのように思われることもある。

けれど、もののあはれとは、何かが失われることを嘆くだけの感情ではない。

物事が移ろっていくこと。

同じ瞬間は二度と戻らないこと。

そして、そうであるからこそ生まれる、静かな愛おしさ。

そうしたものに心を動かされる感覚である。

花は、散らなければもっと美しいのだろうか。

夕暮れは、永遠に続けばもっと尊いのだろうか。

季節はまた巡ってくる。

けれど、次の春には、そこにいる人も、周囲の状況も、それを見ている自分自身も少し変わっている。

アイドル文化が「もののあはれ」という思想から作られたわけではない。

日本のものを何でも昔の美意識で説明してしまうのも、少し乱暴だろう。

それでも、この二つには驚くほど似た感情のかたちがある。

アイドル文化には、始まりがある。

成長がある。

季節がある。

卒業がある。

そして、思い出がある。

変わり続けているものを、変わっているその途中で大切にする文化でもある。

「完成する前」を見つめること

アイドル文化の面白さの一つは、完成された姿だけを見るとは限らないことだと思う。

まだ成長の途中にいる人を見る。

ステージでの立ち方を覚えていく。

人前で話すことに少しずつ慣れる。

踊りが大きくなる。

自分に似合う表情や見せ方を見つけていく。

半年前には難しそうだったことを、いつの間にか自然にできるようになる。

ファンが見ているのは、完成品だけではない。

人が何かになっていく時間そのものでもある。

だから、昔の映像は後になって不思議な価値を持つ。

歌が完璧ではなかったかもしれない。

少し緊張していたかもしれない。

小さな会場だったかもしれない。

でも、そのあとを知っている。

だからこそ、その頃の不器用さまで愛おしく見える。

成長とは、昔の自分を消していくことではない。

後から振り返ったとき、以前の姿もまた、その人が歩いてきた距離になる。

始まりを覚えているからこそ、成長が見える。

青春は、一つの季節である

若いアイドルを見ていると、この感覚はさらに鮮明になる。

青春は、単に年齢のことではない。

そこには、動いている時間が見える。

初めて立つステージ。

初めて着る衣装。

初めて訪れる場所。

誕生日。

学校生活。

少しずつ広がっていく将来。

まだ自分でも知らない可能性。

「初めて」は、いつまでも初めてではいられない。

けれど、若さを大切に思うことは、その人にいつまでも若いままでいてほしいと願うことではない。

むしろ、本当にその人を大切に思うなら、成長してほしいと思う。

いろいろなことを知ってほしい。

自信を持ってほしい。

新しい夢を見つけてほしい。

そしていつか、自分自身で選んだ未来へ進んでほしい。

それでも同時に、

「今のこの人を、いつか懐かしく思うだろう」

と感じることはできる。

この二つは矛盾しない。

大切に思うということは、時間を止めることではない。

もしかすると、こんなふうに思えることなのかもしれない。

今のあなたをいつか懐かしく思うだろう。
それでも、あなたがずっと今のままでいる必要はない。

季節を愛することは、その季節が永遠に続くことを求めることではない。

春が一年中続けば、桜がもっと美しくなるわけでもない。

青春も、きっと同じである。

卒業は、時間に輪郭を与える

アイドル文化には、時間の流れそのものを形にしたような言葉がある。

卒業。

考えてみれば、とてもよくできた言葉だ。

卒業は終わりである。

けれど、それは成長したからこそ訪れる終わりでもある。

そこまでの時間を歩いたから、次へ進むことができる。

ファンにとって、それは寂しい。

いつものメンバーが、同じ並びで同じステージに立つことはもうない。

毎日のように「今」を伝えていたSNSが、少しずつ過去の記録になっていく。

信じたくなかった卒業の日が、いつの間にか予定表の日付になり、

やがて「昨日」になる。

けれど、卒業したからといって、それまでの日々が無意味になるわけではない。

むしろ逆かもしれない。

終わりがあることで、その前にあった時間には輪郭が生まれる。

終わる前には、ただ続いていた毎日だった。

終わったあと、初めてそれが一つの時代だったと気づく。

最後のライブには、不思議な感情が同時に存在する。

笑う人がいる。

泣く人がいる。

「ありがとう」と言う。

「これからも頑張って」と言う。

どれも間違っていない。

喜びと寂しさは、同じ場所にいてもいい。

時間が過ぎることを悲劇として拒むのではなく、

その時間を経験できたことに愛おしさを感じる。

それも、もののあはれに近い感情なのだと思う。

季節は戻る。でも、同じ瞬間は戻らない

日本のアイドル文化には、季節がよく似合う。

桜。

梅雨の紫陽花。

夏空。

浴衣。

海。

祭り。

紅葉。

冬のイルミネーション。

お正月の挨拶。

何気ない背景のように見えるけれど、こうしたものが繰り返されることで、一人の人の活動の周りに静かな暦ができていく。

紫陽花と一緒に撮った写真は、単に「花の前に立っている写真」ではない。

あの年の六月である。

浴衣の写真は、

あの夏である。

そして翌年、また同じ季節がやってくる。

花は咲く。

けれど、写っている人は少し変わっている。

それを見ている私たちも変わっている。

写真は、時間を止めるもののように思える。

けれど実際には、一枚の写真を見るたびに、私たちは同時に二つのことを知る。

この瞬間は、確かにあった。

そして、

この瞬間は、もう過ぎた。

写真がアイドル文化の中で大切にされる理由の一つは、そこにあるのかもしれない。

写真は時間を止めない。

ただ、自分もかつてその時間の中にいたことを、思い出せる形にして残してくれる。

年を取らない歌

音楽には、さらに不思議な時間が流れている。

人は年を重ねる。

録音された歌は、年を取らない。

16歳のときに歌った声は、何年後に再生しても16歳のままである。

歌った本人は、もう全く違う人生を歩いているかもしれない。

卒業しているかもしれない。

別の仕事をしているかもしれない。

声も、考え方も、日々の暮らしも変わっているかもしれない。

それでも、歌だけは同じ場所に残る。

そこには美しい非対称がある。

人は時間の中を進む。
歌は、その場所で待っている。

何年か後、もう一度再生ボタンを押す。

もちろん、本当に昔へ戻るわけではない。

誰かが再び16歳になるわけでもない。

けれど、記憶には時間を巻き戻すこととは少し違う力がある。

過去の瞬間を、今の自分からもう一度意味のあるものとして受け取ることができる。

昔はただ明るく聴こえた歌が、後になって少し切なく聴こえる。

「明日」を歌っていた言葉を、その明日がすでに過ぎたあとに聴く。

同じ曲なのに、聴いている自分が変わったことで、歌の中に別の景色が見えてくる。

三分ほどの歌の中に、一つの時代が残っていることがある。

時間が残していくもの

ここでもう一つ、少し近くにある日本の美意識について考えてみたい。

侘び寂び。

もののあはれと同じものではない。

侘び寂びは、簡素さ、不完全さ、古びていくもの、時間の痕跡などに美しさを見いだす感覚と結びつけて語られることが多い。

アイドル文化にも、それに少し似た瞬間がある。

少し色の変わった昔のチェキ。

折り目のついたフライヤー。

照明も設備も完璧ではなかった小さなライブハウス。

まだ豪華ではなかった頃の衣装。

少しだけ声が震えていた、初期のライブ映像。

後になって、それらが妙に大切になることがある。

完璧に磨き上げられていないからこそ、

そこに本当に人がいたことが見える。

侘び寂びとは、「不完全なら何でも美しい」という意味ではない。

ただ、価値のあるものはすべて完璧でなければならないのか、と静かに問いかける美意識ではある。

アイドル文化は、ときどきその問いに「そうではない」と答える。

頑張っている姿が見えるからこそ、心を動かされることがある。

少し不器用だった昔のライブが、その後の成長を知っているからこそ宝物になる。

古い写真に時間の跡が加わることで、かえって思い出が深くなることもある。

二つの美意識を分けて考えるなら、こんなふうに言えるかもしれない。

もののあはれは、過ぎていく瞬間がなぜ心を動かすのかを教えてくれる。

侘び寂びは、その時間が残していった不完全なものを、なぜ私たちが大切にしたくなるのかを教えてくれる。

「そこにいられた」ということ

かつて私が知ったそのグループは、もう当時のままではない。

メンバーは卒業した。

何年かの時間が過ぎた。

みんなそれぞれの人生を歩いている。

それでいいのだと思う。

それでも、私はきっと、これからも彼女たちのことを大切に覚えている。

何かが永遠に続かなかったからといって、

その何かが大切ではなかったことにはならない。

私たちは、ときどき「長く続くこと」こそ価値の証明であるように考えてしまう。

友情は永遠でなければならない。

グループはずっと続かなければならない。

大切な場所はなくなってはいけない。

美しい瞬間は保存しなければならない。

けれど、人の人生はたいてい、そんなふうにはできていない。

自分を深く変える出来事の中にも、

数年しか続かなかったものがある。

一つの季節だけのものがある。

一日の午後だけのものがある。

三分ほどの歌の長さしかなかったものさえある。

終わったことは、

起こらなかったことにはならない。

アイドルが大人になったからといって、その人が観客と共有した青春が消えるわけではない。

卒業したからといって、それ以前のライブが消えるわけではない。

グループが終わったからといって、歌われた歌まで消えるわけではない。

記憶は、時間に勝たなくてもいい。

何かを少しだけ未来へ運ぶことができれば、それで十分なのかもしれない。

歌が流れているあいだに

「いつか終わる」と気づくと、人は少し早く寂しくなってしまうことがある。

けれど、もののあはれには、もう一つの方向があると思う。

終わることを知っているからこそ、

今あるものに、もう少し丁寧に気づくことができる。

「おはよう」と言う。

ライブへ行く。

写真を撮る。

まだ上手に歌えない頃の歌を聴く。

自信がつく前の緊張した表情を覚えておく。

一度しかない誕生日を祝う。

感謝が思い出になってしまう前に、「ありがとう」と伝える。

これは、今にしがみつくことではない。

むしろ反対だ。

何かを大切にすることは、それにずっと同じままでいてほしいと願うことではない。

ここにいるあいだは、ちゃんと見つめる。

変わるときには、その未来を願う。

そして過ぎたあとには、

そこにいられたことを大切に覚えている。

日本のアイドル文化には、そんな静かな美しさがある。

そしてそれは、アイドルだけの話でもない。

私たちは皆、誰かが今の自分を好きでいてくれる間にも、

少しずつ次の自分になっている。

青春は過ぎていく。

グループは変わる。

ステージの照明は消える。

歌は終わる。

それでも何年か後、そのメロディーが心のどこかに残っていることがある。

過去へ戻れと言うためではない。

ただ、

あの時間に出会えてよかった

と、静かに思い出させるために。

歌は、時間を止めてほしいとは言わない。

時間が流れているあいだに、ちゃんと聴いていてほしいと語りかける。

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