Essay 01 · SNSと文化

「おはよう」のあと、アカウントは消えた

日本のアイドル文化と、グローバルSNSモデレーションの限界

朝、ひとりのアイドルが写真を投稿する。

カメラに向かって笑っている。

「おはよう」

ファンも、ごく自然に言葉を返す。

「今日も良い一日を」
「お仕事頑張ってね」
「朝から笑顔を見られて嬉しい」

花の絵文字を一つ添える人もいる。

本人は、そのコメントに「いいね」を付けるかもしれない。

特別なことは何も起きていない。

けれど、そこには残しておく価値のあるものがある。

日本のアイドル文化の魅力は、ステージの上や特別な作品の中だけにあるのではない。

朝の挨拶。
季節の服。
イベントが終わったあとの一枚。
「今日もありがとう」という短い言葉。

そんな小さな積み重ねの中にもある。

アイドルとファンの間には、もちろん距離がある。

それでも、その距離を越えて少しだけ温かいものが行き来する。

そして時々、そのアカウントが突然消える。

機械には何が見えているのか

SNS上で日本のアイドル文化を長く見ていると、理解しにくい規制に出会うことがある。

ほとんど普通の近況しか投稿していないアイドル。

毎朝、好きなアイドルに「おはよう」と送っているファン。

正規の撮影会やモデル活動で撮影した写真を掲載しているカメラマン。

そうしたアカウントが凍結されたり、検索に出にくくなったり、理由の分からない制限を受けたりすることがある。

日本のアカウントが実際に他国より高い割合で規制されている、と断定できる公開データは見当たらない。

また、外部からは、個々の規制が何をきっかけに行われたのか分からないことも多い。

その不確かさは大切にしたい。

ただ、それでも考えてみる価値のある問いがある。

世界規模のモデレーションシステムは、自分が十分に知らない文化を見たとき、いったい何を見ているのだろう。

人間には、朝の挨拶に見える。

システムには、同じ文章の反復に見えるかもしれない。

人間には、同じグループのメンバーが明日のライブを告知しているように見える。

システムには、複数アカウントによる類似した投稿に見えるかもしれない。

人間には、アイドルが一人一人のファンに感謝を返しているように見える。

システムには、短時間に行われた20回の「いいね」に見える。

観測した事実そのものは正しくても、その意味を完全に読み違えることがある。

機械が日本のアイドル文化を嫌う必要などない。

ただ、それを「読めない」だけで十分なのである。

20個の「いいね」

ある10代の女優について、とても印象に残っていることがある。

所属先のルール上、ファン一人一人のコメントに個別の返信をすることはできなかった。

その代わり、彼女はコメントを読んで、「いいね」を付けていた。

20人からコメントが来れば、20個のいいねを付ける。

ファンにとって、その意味はとても単純だった。

「ちゃんと読んだよ」

それだけである。

小さなことだ。

でも、アイドル文化には、こうした小さな行為がたくさんある。

ある時、彼女のアカウントには一時的に「不審なアクティビティ」のような警告が表示され、プロフィールを見るために確認操作が必要になった。

数日後、その表示は消えた。

20回のいいねが原因だったのかは、外部からは分からない。

それでも、この例は興味深い。

行動データとして見れば、同じ操作を短時間に20回繰り返している。

人間関係として見れば、20人それぞれに感謝を返している。

アルゴリズムは数える。

文化は意味を読む。

夏の写真が、別のものになるとき

写真の場合にも、似たことが起こる。

日本のアイドルやグラビアには、その文化の中で自然に理解されている写真表現がある。

季節感。
ファッション。
かわいらしさ。
明るさ。
少し大人びた表情。
その人らしさ。

一枚の写真には、いろいろな意味がありうる。

18歳以上のアイドルやモデルであれば、自分がどのような服を選び、どのような写真表現をしたいのかという本人の意思は、もっと尊重されてよいはずだ。

夏の日に撮られた水着の写真も、それだけでポートレートではなくなるわけではない。

ところが、本人や普段の観客がモデル写真やグラビアとして自然に受け取っているものが、センシティブなコンテンツとして扱われ、見えにくくなることがある。

もっと分かりやすい誤判定もある。

普通の服を着て、ただ笑っているだけの写真までセンシティブなものとして扱われることがある。

そうなると、問題は少し哲学的ですらある。

プラットフォームは単に「この写真をどこに表示するか」を決めているのではない。

この写真が何を意味するのかまで、代わりに決めてしまっている。

そして、その解釈が間違っていることもある。

若い表現者も、理解されるべきである

写っている人が18歳未満の場合には、より丁寧な判断が必要になる。

けれど、丁寧に考えることと、最初から疑って見ることは同じではない。

10代の人たちも、演技をする。

歌う。

踊る。

モデルになる。

ファッションを楽しむ。

自分なりの美意識を持つ。

将来やってみたい仕事を考える。

彼女たちは、単に「守られる対象」であるだけではない。

一人一人に意思があり、好みがあり、表現したいものがある。

もちろん、年齢が若いからこそ、周囲の大人や関係する組織には特別な責任もある。

この二つは矛盾しない。

17歳の女優が、何年も明るい写真や仕事の報告、季節の思い出をファンと共有してきたとする。

その中の一枚を自動判定がうまく理解できなかったからといって、本人のそれまでの表現全体まで別のものとして扱われるべきではない。

水着が写っている写真も、すべて同じ意味を持つわけではない。

本人や家族、仕事の関係者、そして普段からその活動を見ている人々が、通常のモデル活動や芸能活動の一部として自然に理解している写真もある。

だからといって、「文脈があれば何でもよい」という話ではない。

もっと単純なことである。

文脈もまた、それが何であるかを理解するための一部なのだ。

若い人は、不適切な接し方をする人から守られるべきである。

同時に、どこかの誰かが悪い見方をする可能性があるというだけで、本人の普通の自己表現までその見方によって定義される必要はない。

不適切な見方や行動を選んだ人の責任は、まずその人自身にある。

その解釈が、写真そのものの意味になる必要はない。

表現することと、悪用することは違う

この区別は、実際に問題のある行動をしているのが、アイドルやモデル本人でも、正当に撮影している人でもない場合に、さらに重要になる。

若い芸能活動者に対して、第三者が不適切な言葉を向けることがある。

普通の目的で公開された写真が、本人の意図しない形で利用されたり、加工されたりすることもある。

そうした行為と、元の本人による表現は同じではない。

ここで重要なのは、日本人か外国人かではない。

もっと単純な違いである。

表現することと、他人の表現を悪用することは違う。

文化に参加することと、その文化の中にいる人を利用することは違う。

自分自身を表現することと、他人の写真を本人の望まない形で扱うことは違う。

正当に活動しているアカウントが制限される一方で、実際に不適切な行動をしている人が残っているなら、奇妙な逆転が起きる。

守られるはずの本人の自由が狭められ、本当に止める必要のある行動のほうが残ってしまう。

安全を大切にするシステムだからこそ、その違いを正確に見分けてほしい。

データの中にある文化

もっと根本的には、グローバルなSNSが人間の文化を「データ」として見るようになったこと自体に、一つの難しさがあるのかもしれない。

笑顔は画像の特徴になる。

水着は分類の確率になる。

挨拶は反復テキストになる。

感謝はエンゲージメントになる。

コミュニティはネットワーク図になる。

どれも役に立つ。

けれど、どれもそれ自体が文化ではない。

日本のアイドル文化には、外から見ると小さすぎて見落とされそうなものがたくさんある。

朝の「おはよう」。

紫陽花の季節に撮った一枚。

夏の浴衣。

新しい髪型。

一つの「いいね」。

「今日もありがとう」。

「また会おうね」。

正確に数値化するのは難しい。

けれど、人がアイドルを好きになる理由の一部は、まさにそういうところにある。

仕事へ向かう朝を、少しだけ明るくしてくれる人がいる。

その人に「今日も頑張って」と返す人がいる。

カメラマンは、美しい午後の一瞬を写真に残す。

そしてその周りに、小さな思い出の共同体が生まれていく。

中にいる人にとっては、決して理解しにくい文化ではない。

ただ、遠くからパターンだけを見るシステムには、その意味が見えないことがある。

グローバルなSNSに必要な謙虚さ

世界中の文化を、どんなSNSも完璧に理解することはできない。

そこまで求めるのは現実的ではないだろう。

だからこそ必要なのは、少しの謙虚さなのだと思う。

知らないものを見たとき、「分からない」をすぐ「怪しい」に変えないこと。

自動判定が間違ったとき、人間がそれを直せること。

そして、何年もの活動や写真や思い出が詰まったアカウントを消すのであれば、一つの投稿をおすすめに載せない場合よりも、ずっと慎重であること。

日本のアイドル文化だけを特別扱いしてほしいわけではない。

必要なのは、普通の違いを普通に見分けられるルールである。

毎朝繰り返されるからといって、挨拶がスパムになるわけではない。

20回行われたからといって、感謝が不正な操作になるわけではない。

誰かが悪く解釈する可能性があるからといって、一枚の写真の意味までその人に奪われる必要はない。

そして、アルゴリズムが理解できないからといって、文化そのものが存在しなくなるわけでもない。

何を残す価値があるのか

SNSの安全について考えるとき、私たちは「何を消すべきか」という話をしがちである。

でも、ときには反対のことを考えてもいい。

何を残す価値があるのだろう。

カメラの前で少しずつ自信をつけていく人。

仕事へ行く誰かを、朝の一枚で笑顔にするアイドル。

美しい午後を写真に残すカメラマン。

好きな人に「今日も頑張って」と伝えるファン。

毎朝交わされる、小さな「おはよう」。

どれも大げさなものではない。

だからこそ、大切なのかもしれない。

インターネットは、怒りや対立や刺激の強いものを広げることについては、すでに十分すぎるほど上手である。

もう少し静かな、人間らしいものを守ることについても、同じくらい上手になってほしい。

日本のアイドル文化には、そんな瞬間がたくさんある。

少し不器用なくらい真っすぐで、優しくて、ときには驚くほど日常的なものだ。

グローバルなSNSが、その文化を好きになる必要はない。

ただ、それを隠したり、別の名前を付けたり、制限したり、消してしまったりする前に、

自分がいったい何を見ているのかくらいは、分かっていてほしい。

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